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四国旅行の最終日、直島の地中美術館に行った。
地中美術館は、内部のほとんどが撮影不可で、何も記録に残っていないんだけど、いまだに色濃く記憶に残っている。
美術館にいた時、なんとなく記録と記憶についてぼんやり考えていた気がする。
というのも、鑑賞中だれもスマホやカメラを手に持たずに、全身を使って作品に対峙していたあの空間が、あまりにも久しく、素晴らしかったから。記録する道具を封じられたあの場では、誰もが記憶に残すことに集中していた。
最近の美術館や展示会場では、否応なくシャッターを切る音が響き、ろくに作品を見ることもなく通り過ぎる人を見かける。挙句の果てにはその空間にいる自分をポートレートとして残す人がいるくらいだ。作品を見にきた自分を見にきたんだと思う。ただ、最近のインスタレーション作品の中には、鑑賞者が撮影することで成立するものもあるので、鑑賞の変化によって作品を記録することが当たり前になりつつあるのは仕方ないなと思っている。
そんな鑑賞風景が当たり前になりつつある中で、本当に久しい感覚だったと思う。静寂な空間で、目の前で起きていることに全神経を注いで鑑賞できた感覚がした。
今や誰もがスマホやカメラを使って記録を残している。自分もそうだ。
でも、シャッターを切る時って、記録に残してるけど、記憶に残ってることってあったっけ。
それくらい、自分にとって記録に残すことがあまりに当たり前で、普遍的で義務的な行為になっているからこそ、劇的な瞬間ですらシャッターを切ることで「記憶に残している」と錯覚していた。そんな当たり前の記録手段が封じられたあの空間では、「記録をしなければならない」という謎の呪縛から解放されて、自分の目を使って対峙することに没頭できた。