子どものころ、そこらへんに落ちてた石と木の棒で5時間くらい遊んでいた。木の棒で石ころを弾いて、思わぬ方向に転がった石が排水溝に落ちていく様子を見て永遠に大爆笑していた、そんな日々をふと思い出した。遊びは「与えられるもの」ではなく、「自分で生み出すもの」だった。
でも、大人になると、遊ぶには何かを買うことが当たり前になる。ゲーム、映画、テーマパーク、ライブ…。すべて誰かが設計した“完成された体験”を消費している。
これはなぜなのか。かつて“自由”だったはずの遊びに、いつからお金が必要になったのだろう。
生まれてすぐのころ、遊びはごっこ遊びだった。自分が認識している世界なんてものはちっぽけで、曖昧で、想像の赴くままになんにでもなれた。大概、自分は忍者かゴリラになっていた気がする。
小学生になると、遊びに“ルール”が芽生えた。「ジャンケンで勝敗を決めよう」「白いところ以外は“マグマ”ね」「ここから先は安全地帯だから」そうやって、自分たちで制約をつくりだすことそのものに、むしろ面白さを生み出すようになっていく。
そして大人になるころには、遊びのルールはもっと精緻になっていて、私たちは、その“よくできたルールの世界”を、お金を払って手に入れるようになる。
ゲームはレベルやスコアで達成感を明確に設計し、映画は120分の中で感情の起伏を計算し尽くす。MVは3分で音の捉え方を二転三転してくる。ベルトを締めて高いところから落とされて非日常的なスリルを物理的に味わう...
遊ぶことの「面白さ」があらかじめ仕組まれた世界に、安心して飛び込むようになっている。
この変化には、はっきりとした理由がある。
子どもは無限の自由を楽しめるが、大人になると、「制約がある中での自由」に魅力を感じるようになる。「なんでもしていいよ」よりも、「この中で自由にやっていいよ」と言われた方が安心できるのだ。
ゲームにルールやゴールがあるのは、操作が楽しいからではない。ルールの中にこそ、工夫や挑戦の余地が生まれるからだ。
制約があるからこそ、「遊び」が「試行錯誤」になり、その中で何かを達成したり、誰かと関係をつくることそのものが面白くなる。
「映画は受動的で、ゲームは能動的」とよく言われる。たしかに、映画は観るもので、ゲームは操作するものだ。
でも実際には、その境界は曖昧だ。
ゲームは、あらかじめ設計された世界で、あらかじめ用意された選択肢を選ぶ体験だ。自由に操作できるように見えても、「用意された自由」の中で動いているとも捉えられる。
一方で、映画やMVのような受動的な体験も、観る人の記憶や解釈によって大きく変化する。感動する場面が違ったり、誰かと語ることで新しい見え方が生まれたりする。それは、受動の中に潜む能動性とも言える。
こうして見ると、「面白さ」の捉え方そのものが大人になるにつれて大きく変わっていることに気づく。
観点 | 子ども | 大人 |
---|---|---|
面白さの源泉 | 世界をつくる、即興性 | 制約の中での工夫、成果 |
遊び方 | 無から遊びを生み出す | 与えられた中で自由に振る舞う |
時間感覚 | 無限の時間がある | 限られた時間で確実に楽しみたい |
他者との関係 | 遊びながら関係ができる | 安全な関係性の中で遊びたい |
大人になると、遊び方も、面白さの感じ方も変わっていく。即興性や偶然性よりも、目的や成果、物語が保証された遊びに惹かれるようになる。
それは、想像力が衰えたからではなく、制約の中にこそ、自分らしさや選択の余地を見出すようになるからだ。社会との緩やかな接続によって、単なる生物から、社会の組織の一員としての価値観が植え付けられていった結果なのだろうか。
そうして私たちは、「遊ぶ権利のある世界」を、自ら選び、そしてお金を払って手に入れる。
子どものころは、遊びは世界そのものだった。今は、遊びのために設計された世界の中で、もう一度「自由な遊びとは何か」を問い直している。
どちらも、確かに“遊び”だ。その形が変わっただけで、楽しむ心はちゃんと残っている。一方、楽しめている、と言い聞かせている自分もいる。
あらゆる遊びが金と接続されていく中で、自由ある遊びとは何か、そんなことを考えている。