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いくつかの展示を通して、時々言われるのが
「これスマホアプリでよくない?」
「アプリで出した方が売れそう」
「スマホの方がいいんじゃない?」
という意見だ。
正直結構悔しい。スマホで代替可能な体験だと伝わっているわけで、このプロダクトならではの体験として落とし込めていないんだという強烈なフィードバックである。
ただそこで、「じゃあスマホアプリにしよう」となってはいけないのだ。これはプライドとかではなく、「なぜ専用のプロダクトをわざわざ作ろうと思ったのか」自分へ問い直す良い機会だと考えている。作品によって様々であるが、共通する考えを残しておこうと思う。
おいおい一発目から個人的なことかよ!と突っ込みたくなるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。まず、自分がなぜ販売ではなく展示をするのか。わざわざ自分という身を表に出してまで展示をするのはなぜかというと、自分が楽しいからである。
自分が楽しいと思って作ったものを披露し、誰かに見てもらうという、展示における一側面に対して、当然の理由なわけだ。スマホアプリにすれば簡単で多くの人に届けられる、なんてことは検討段階でわかっている。ただ、自分が作るとなった場合は、スマホアプリを作るよりも、どんなハードウェアで遊ぶかを考え、形にすることの方がずっと楽しいのだ。
誰もが持つスマホで遊べるものではなく、長谷川泰斗の作品でしか遊べないものを作るということは、当たり前だが自分と会ってもらうことでしか遊べない。これは自分にとって非常に重要だ。
多くの人が手に取れることはもちろん重要だが、私が重視したいのはそこではない。目の前で人々が遊び、さまざまな表情を見せて、対面で「楽しかった」「つまらなかった」と鮮度の高いフィードバックを受け取ることを重視している。
スマホアプリにすればデータがたくさん取れるとか、そんなのわかっている。でもデータという客観的指標だけで果たして自分の遊びは評価できるだろうか。いやそうではない。目の前で遊ぶ人の些細な表情の変化、子供と大人の介入の変化、周りの環境、そういった主観的で限りなく生の指標が、「私がつくる」という点において必要不可欠になるのだ。
「これ売れるよ!」って言ってくれるのは大変ありがたいが、私はビジネスをしたいわけではない。売れるかどうかを最初に考えていたら、本当に必要な要素が抜け落ちる気がして仕方ないのだ。まずは自分が「これは楽しい、喜んでもらえる」と実感してから、初めてビジネスのフェーズを考える。客観的指標はそれからでいい。
スマホアプリにするということは、同時にスマートフォンが持つさまざまな要素を制約して受け入れるということになる。タッチパネルからボタン配置、ディスプレイの解像度、スピーカーの配置まで、スマホの要素に依存する体験設計となる。迅速にプロトタイプにしたい&必要な要素がスマホに含まれているなら、確かにスマホがいいのかもしれない。でも果たしてそうだろうか?
人によっては他のアプリの通知が頻繁にきて体験に集中できないかもしれないし、体験に対してスマホが適した重量ではないかもしれない。また、長方形という形は本当に遊ぶ上で適しているか、タッチパネルと画面表示によるインタラクションで本当に良いか?過剰なフィードバックにならないか?
など、スマホというマルチメディアはあまりに複雑だ。
自分が作り出す体験には、必要のないものが含まれすぎている場合がある。高画質のディスプレイじゃなくてもっと低解像度でもいいとか、LED一本だけで成立するとか、もっとシンプルな要素でも体験できることはたくさんあるはずだ。
このように考えると、自分が考えた体験のためにもっともシンプルで、素のようなプロダクトを生み出すことは本質的な体験の質を見極める上で非常に重要なのだ。
そして、シンプルであるということは、発展の余地が残されているということだ。やっぱりLEDじゃなくてディスプレイの方が良かったとか、物理ボタンよりもタッチセンサーの方が良かったとか、少しずつ要素を改良できる。その結果、スマホが良いとなればスマホアプリを作るだろう。「スマホでいいや」じゃなくて「スマホがいい」となる閾値を探しているのだ。
4に続けてとなるが、スマホと一概に言っても、微妙に性能やインターフェースが異なる場合がある。こういった些細な変化によって体験にブレが生じるのも避けたい。
スマホは年々パーソナライズ機能が充実して、個人に合わせた設定にチューニングされている。そのため、画面の明るさや、スピーカーの音量、スマホカバーに至るまで、その形態は十人十色だ。スマホアプリにすると、こう言った条件に応じて体験が変化する。
単なる情報提示やサービスであればそう言ったことを考える必要はあまりないのかもしれないが、音楽やゲームといった体験においてはこういったブレは大きく影響を及ぼす。
これがある種もっともらしい、作り手考えるもっともな理由だと思う。
とか、スマホでは到底担えないようなインターフェースが求められることがある。これは専用のハードウェアを設計する理由としてもっとも明らかだ。逆に、ここでスマホで完全に代替可能なインターフェースなのであれば、それはスマホの方が良いとなる。
また、ディスプレイ上のUIとしてのボタンが良い場合もあれば、物理的なボタンの方が良い場合など、単なるボタンというインターフェース一つとっても、GUIか物理かによっても体験が大きく変化する。ボタンのカチっという音が、実は体験における操作実感やリズムなどに関わっていたなども全然あり得る。
こう言った細かな操作感は、デザインフェーズの中では後半に考えるイメージもあるかもしれないが、操作そのものを体験の一部として設計する場合は、序盤で検討するべき項目にもなり得る。となると、自ずとプロトタイピングの段階でスマホは候補から外れ、独自のインターフェースを設計する必要性が生まれてくるわけだ。
いつも触っているスマホに、再び触れるようなアプリを作ったとして、果たして人々は嬉しいのだろうか。最近よく考えることだ。
使い慣れない、見たことのないインターフェースに触れる喜びは何よりも刺激的だ。ガラス板を触る感触を一旦忘れて、カチッと押すボタン、カリカリと回すエンコーダ、点滅するLED、ぐにゃっとした粘土など...普段触れ慣れないインターフェースとの出会いを生み出すことに私はやりがいを感じる。
もう少し細かい話にしてみる。
前述した通り、スマホの画面に表示されたGUIボタンと、物理的なボタンでは、操作した時の感触が明らかに違う。ボタンを押し込む感触や、肌に触れる凹凸・テクスチャなどから得られる単純な喜びは、それでしか味わえない。なぜなのか。
予測誤差最小化理論という、知覚のメカニズムに関する話がある。人間は、何か行為をする際に予測をし、その結果が思った通りであればあるほど正の感情が呼び起こされるという認知のメカニズムだ。おそらく物理的なインターフェースには、これが深く関わっている。
物理ボタンは、触れた瞬間に触れたということが即座に知覚され、押した瞬間に押したということが即座に知覚できる。
一方でGUIボタンでは、触れた瞬間に触れたということが即座に知覚できるものの、押せたかどうかは、画面上のフィードバックを見て理解して初めて知覚できる。
一見すると本当に些細な差なのだが、この微妙な知覚プロセスのズレが、心地よさに大きな違いを生み出している。
最後に理論で固めてきたなと思われるかもしれないが、紛れもなく物理インターフェースでしか成し得ないよろこびがそこにはあると信じている。
以上のように、一概になんでもスマホに置き換えれば良いという話ではないことが改めて確認できた。
正直、「iPhoneでいいじゃん」って言われると、心底羨ましくなる。自分が使いたい技術はだいたい詰まっていて、それでいてデザインは洗練されていて、あれだけ多くの人の手に渡っているプロダクトなんてそうそうない。
それでも、「これは俺がつくったものでしか体験できないな」と思えるものを生み出せたときの達成感こそ、スマホには生み出せないのである。