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限りなく個人的な料理の面白さについて

Jan 13, 2025

料理が好きです。

というものの、何が好きかと問われるといろんな視点が含まれるので、料理の全体的な流れを通しながら面白さについて書いていこうと思う。

レシピ計画:数多の条件から最適な一皿を導く

まず、料理をつくるには「何をつくるか」考える必要がある。食べる自分や相手の気分や体調、最近何を食べたか、好きな・嫌いな食べ物は何か、さまざまな条件を鑑みて、その日の最適な料理を考えるのが楽しい。

自分が料理をする上でよく考える条件を羅列してみる

  • 自分や相手の気分、体調
  • 最近何を食べたか
  • 好きな・嫌いな食べ物
  • 次の日は何があるか
  • 当日の気温や湿度
  • 冷蔵庫にある食材

このように、人間の内的な欲求に加えて、外的な条件も絡んでくるのも面白い。寒い季節であれば、あったかいものがいいだろうし、暑い季節であれば、つめたいものがいいだろう。冷蔵庫にある食材を制約とすることもあるだろう。食する「人間」を軸に、内的・外的な条件を広げて、その瞬間に最適なレシピを叩き出すのは、パズルゲームのような面白みがある。

つまり、料理というのは、需要と供給のバランスを見極めることが必要であるとわかる。これを限られた時間で高速に導出する主婦のみなさん、改めてすごいと感じる。

食材調達:季節によって異なるコスト、意外な出会い

レシピが決まれば、必要に応じて食材を調達しにスーパーへと出かける。季節によって出会える食材が異なり、さらには価格も流動的に変化する。コストを見極めて最高のメンツを集めるのは、RPG的な楽しさがある。

レシピ計画と食材調達はお互い密接に関わり合う。特に、季節性による食材の入手性が変化するところがその最たるものだ。作ろうと思っていたレシピに必要な食材が思ったより高かったりすると、その場で即興性が求められる。「大根が思ったより高い。けど、かぶが安いから代わりにできるな」のように、柔軟性が必要だ。

コストを度外視すればぶっちゃけ必要のない考えではある。が、予算を制約として、当初のレシピから思わぬ変化に遂げる可能性があることは個人的に面白い点だ。

また、少し大きいスーパーに行くと、見慣れない食材との出会いがある。ちょっと冒険して買ってみたり、今日のレシピの意外なスパイスになる可能性もある。いつものメンツを集めるだけでなく、新しいニューカマーを探しに行く楽しみもあるだろう。

近くの八百屋さんで手に入れた食材たち。茄子がこの時期にしては安かったので、今回は麻婆茄子を作ることにした

メロゴールドという見慣れない果物を見つけた。こう言った出会いがあるのが楽しい。八朔のような酸味と甘みのバランスが良くてむちゃくちゃ美味しかった

下ごしらえ:リスクと隣合わせの工程、時間との勝負

家に帰ったら、まず必要な食材を下ごしらえする必要がある。下ごしらえは緊張が伴う工程だ。包丁というミスをすれば自分を傷つける可能性のある道具を使って切り分けていく。安全性がある程度保証された現代社会において、最も身近な危険が伴う瞬間だと考えている。

ある程度包丁の扱いが身についても、それは「ものを切る」という道具である以上、常に危険を孕んでいる。目の前の食材に集中する必要があるし、よそ見なんてしたらすぐに自分を傷つけることにもなる。

また、なるべく失敗しないようにゆっくり切ることも許されない場合もある。魚や肉などの生物や、茄子やズッキーニなどの瓜野菜などは、ゆっくり下ごしらえをしていたら次第に変色していく。ある程度の素早さも求められるのが、この危険性をさらに倍増させる。なんと手に汗を握る行為なんだろうか。

と言っているものの、今はそんなことを考えながらやってはいない。ある程度の緊張感をものにしながら、淡々とこなしている。リズミカルに次から次へと切り揃えられた食材たちを見ていると、なんだか嬉しくなってくる。旅行前に必要なものをきれいに並べた時のような感覚だ。

このように、直接的に自分にリスクがあるものを、使いこなせるようになる日常体験として、これほどのものはあるだろうか。後述する「火」もそうだが、まさに「使い方によって害にも利にもなる」道具は、何気ない日常のなかに、一定の緊張感をもたらし、自分の中に本能的な「波」を作り出す。毎日安定的に何気なく日常を過ごせることはもちろん大事だ。だが、ぬるま湯に使った日常を過ごす中で人間としての大事な感覚のようなものが鈍ってきているとも感じざるを得ない今日、下ごしらえを通して感じる些細な恐怖心と、克服からなる向上心は、かけがいのない面白さがある。

今回のメインの食材たち。茄子、ネギ、ひき肉。

ナスは火を通すとすぐに萎んでしまうので、なるべく大きめの乱切りするのが個人的な好み。麻婆餡ともよく絡む(気がする)

調理:食材、道具の性質への深い理解、五感を尖らせて火と対峙する

切り分けた食材が、料理へと変化を遂げる瞬間。ただ食材すべてをフライパンの上に乗せて混ぜればいいわけではない。食材ひとつひとつの火の入り方を理解して、入れる順番を考える必要がある。

フライパンひとつとっても、道具を正しく理解し、選ぶ必要がある。なるべく均等に火を入れたければ、大きめのフライパンを選び、食材が薄く広がるようにした方がいいし、オムレツのような厚みを作り出したい時は、小さめのフライパンを選び、卵に一定のかさが生まれるようにした方がいい。また、大きさが異なれば、火の伝わり方や保温性能も異なる。道具選びからその性質への理解が求められる工程だ。

さらに、食材の火の通りを見極めて、味と香りが最も引き立つ瞬間を見極める必要もある。油の温度が適切か、手を近づけて確認し、炒めた食材から聞こえてくるパチパチとした音を注意深く聞きながら、ジャストなタイミングを狙う。

特にニンニクやスパイスの香りを油に移す「テンパリング」と呼ばれる工程では、ちょっとでも気を抜くとすぐ焦げてしまう。香りを引き出すと言っても、嗅覚だけが頼りにならない場合もある。嗅覚とは時間差のある知覚なため、香りをはっきりと感じた頃には、手遅れという場合もある。

ある程度火が通ってきたら、味付けに移る。自分の味覚だけを頼りに、最も味の引き立つ塩味に調整する。パッとしない味付けから、「これだ」とバッチリ決まる瞬間は、全身の毛が立つほどの達成感が伴う。

このように、触覚・視覚・聴覚・嗅覚・味覚と、五感すべてを張り巡らしながら食材を料理へと変化させていく過程は、自分の身体が持つ知覚が存分に発揮されるのだ。

ナスは事前に多めの油で揚げておく。変色を抑えるのと、発色が良くなる。

にんにくとネギの青い部分を弱火でじっくり炒める。即席のネギ油を作るイメージだ。すぐ焦げてしまうので、色味の変化に注意しながら炒めていく。

ひき肉を入れて軽く火が通るまで炒めていく。ここで火を通しすぎるとボソボソとした食感になるため、6割くらいの火入れを目指す

豆板醤、甜麺醤、八角、豆豉、唐辛子の輪切り、紹興酒を加えて、軽く炒める。火を通すことでより香りが立つ。

ある程度香りが立ってきたら、鶏がらスープを全体がギリギリつかる程度まで入れて、沸騰するまで煮込む

ネギの白い部分を刻んだものと、ナスを入れて、じっくり火を通す。ここで強く火を入れすぎるとナスが崩れてくるので、火加減には注意する。

一旦火を止めて、水溶き片栗粉を回しかけ、全体に混ぜ込む。火をつけたままだとダマになってしまうので、一旦火を止めるのがポイントだ。

再度強火にかけて、全体を炒めるように回していく。全体的にもったりとしたとろみになれば頃合いだ。

盛り付け:皿の選定と、美しい配置

熱々のフライパンをそのまま机の上に置いてガッツクのも好きだが、どうせなら皿に盛り付けたい。調理段階で料理はほぼ完成しているのに、どの皿に乗せるかで料理の印象がさらに変わるのが面白い。

大きめの皿に乗せると、みんなで分け合う雰囲気が出るし、小さめの皿に乗せると、つまみながら談笑したい雰囲気が生まれる。浅めの皿に乗せると、あっさりとした印象が生まれ、深めの皿に乗せると、こってりとした印象が生まれることもある。

また、暗めの色の皿に乗せれば、重厚感と緊張感が生まれ、明るめの色の皿に乗せれば、軽快で安心感が生まれる。

なにに盛り付けるか、どう配置するか、皿の余白はどれくらい設けるかによって、視覚的な料理の印象がガラリと変わるのが面白い。料理は単なる味覚や嗅覚に訴えかけるものではないと思い知らされる瞬間である。

(食べるのに夢中で、盛り付けの写真を撮るのを忘れた)

実食:おいしいの一言が生まれる瞬間

ここまでの過程は、限りなく自分の主観に偏った工程である。しかし、相手に食べてもらうとなると話が変わってくる。自分が美味しいと思ったものが、本当に相手にとっても美味しいものなのか。緊張の一瞬である。

「おいしい」

この一言がもらえた時の感情。一体なんなんだろう。自分の行いが素直に認められることの尊さ、また、それが体内へと取り込まれる不思議さ。ふと振り返ると、自身の普段の創作活動に近しいと気づく。

ここまでの過程は、制作において次のように読み替えることができる

  1. レシピ計画:企画
  2. 食材調達:材料調達
  3. 下ごしらえ:準備
  4. 調理:実制作
  5. 盛り付け:展示・リリース
  6. 実食:体験・フィードバック

こう振り返ると、本当に料理というのは創作活動なんだなと思わされる。何気ない日常行為でありながらも、マンネリ化せずにずっと楽しんでいられるのは、自分が創作活動を主とするからなのだろうか。

ただ、自分の制作とははっきりと違うことは、「自分や相手の体内に取り込まれる」ということだ。自分の制作物はあくまで相手にとって異なる物である一方で、料理は相手の一部になる食べ物だ。また、外的のみならず、内的に相手を変化させるのは、料理にか成し得ない術だろう。

料理における、食べられて、無くなるという性質は、なににも代え難い性質であると改めて思う。その瞬間その場で生まれ、やがて消えていく。なんと儚いものなんだろう。


限りなく個人的な料理の面白さについての分析だが、誰かの「今日なんか作ろっか」につながれば幸いだ。